安部榮四郎(あべえいしろう) 1902~1984
安部榮四郎(あべえいしろう)は1902年(明治45年)、島根県八束郡(しまねけんやつかぐん)の八雲町(やくもちょう)(現・松江市八雲町)の紙漉きの家に生まれました。
岩坂村尋常小学校(いわさかむらじんじょうしょうがっこう)卒業記念撮影(当時13歳)
安部は、幼い時から家業の紙すきを手伝い、紙すきの技を学びました。
安部の育った村は古くから紙すきがおこなわれていましたが、必ずしも名高い紙すき産地ではなく、そのため安部の修行は自発的な研究態度となりました。
1923年(大正12年)、21歳の安部は島根県工業試験場(しまねけんこうぎょうしけんじょう)の紙業部(しぎょうぶ)に手伝いに行くことになりました。
ここで安部は各種の紙漉き方法を試みながら技を磨きました。
1931年(昭和6年)民芸運動(みんげいうんどう)を提唱し始めた柳宗悦(やなぎむねよし)が松江を訪れ、安部の漉いた雁皮(がんぴ)の厚紙をみて「これこそ日本の紙だ」とほめたのが機縁(きえん)となり、安部は民芸運動(みんげいうんどう)に参加するようになりました。
安部は、民芸運動の染織(せんしょく)、陶芸、版画などの仲間にはげまされ、鍛えられながら、和紙の持ち味を殺さずに生かして染めた和染紙(わせんし、わぞめがみ)、水の美しい動きを生かして繊維を漉き込んだ漉き模様紙(すきもようがみ)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの植物繊維の特色をうまく生かして漉き分けた数々の生漉紙(きすきがみ)を発表しました。
のちに安部の漉いた紙は、出雲民芸紙(いずもみんげいし)と総称されるようになり、全国で熱心な愛好者を育てました。
1960年(昭和35年)から8年間は、正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)に千年以上保存されている紙について、和紙研究家の寿岳文章(じゅがくぶんしょう)らと調査研究を行い、復元して漉くことに成功しました。
1968年(昭和43年)には、古来の原料と技法を用いて雁皮紙(がんぴし)を漉く技術を認められ、国の重要無形文化財雁皮紙保持者(じゅうようむけいぶんかざい)(人間国宝)に認定されました。
1934年(昭和9年)東京で、一紙すき職人の漉いた紙のみで一堂を飾る「和紙の個展」という、和紙の歴史で初めての試みを行って以来、1984年(昭和59年)12月18日に死去するまで、安部は毎年各地で展覧会を開催してきました。
特に1974(昭和49年)の秋には、国内の活動から飛躍 してパリで和紙の個展を開き、以後1980年(昭和55年)までに、ニューヨーク、ロスンゼルス、サンフランシスコ、北京の各地で個展を開催しました。
1983年(昭和58年)、安部は生涯をかけて収集した、貴重な和紙の資料や民芸品の数々を保存、公開するために、八雲村に「(財)安部榮四郎記念館(あべえいしろうきねんかん)」を設立しました。
また、和紙技術者の育成のため、付属施設として「手漉き和紙伝習所(てすきわしでんしゅうじょ)」を建設しました。
現在、安部榮四郎(あべえいしろう)の心は孫の信一郎、紀正兄弟の手へと受け継がれています。
出典:
出雲民藝紙「安部榮四郎記念館」安部信一郎
安部榮四郎記念館(安部榮四郎について)