出雲民藝紙(いずもみんげいし)以外にも、全国には歴史ある紙産地、個性的な紙産地が数多くあります。
その中でも、有名な産地を取り上げて紹介いたします。
・東山和紙(とうざんわし) (岩手県一関市)
東山和紙(とうざんわし)の起源については、諸説があってはっきりしていません。
一般的な定説としては、平安末期の文治5年(1189)に鎌倉勢に滅ぼされた、奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)の藤原氏の落人(おちびと)が、東山町一帯に土着して、農耕の傍ら、生活用品としてつくり始めたといわれています。
およそ800年の伝統があります。
東北地方は昔より、まず楮を植え原料を確保して、それから紙漉きをはじめるという伝統があります。
旧東山町では、現在でも、地元の楮を大切にして、和紙を漉いています。
・西の内和紙 (茨城県常陸大宮市)
旧山方町西野内では、水戸藩の紙専売制のもとで大きく発展し、大都会・江戸の多様な需要に応えた、強靭な楮紙(こうぞし)を漉いてきました。
和紙は中世の佐竹氏時代から漉かれていましたが、かの有名な水戸光圀(みとみつくに)が紙の生産に力を入れ、領内に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)を植えさせて奨励しました。
この和紙は水戸藩のみならず江戸表へも出荷され、御用紙(ごようし)、商人の帳面紙(ちょうめんし)、所謂大福帳(だいふくちょう)などとして好評を博し、やがて「西の内和紙」として有名になりました。
那須楮(なすこうぞ)と呼ばれる上質な楮を使って、勢いの良い流し漉きで生まれる、やや薄い楮紙(こうぞし)です。
・烏山和紙(からすやまわし) (栃木県那須烏山市)
那須楮(なすこうぞ)を原料として、飛鳥時代(あすかじだい)後半から、古い歴史を伝えています。
那珂川(なかがわ)の清流に恵まれ、鎌倉時代には、全国に那須紙(なすがみ)の名が知られていました。
烏山(からすやま)の代表的な程村紙(ほどむらがみ)は、楮紙の代表格で、明治時代には選挙用紙に指定された歴史を持ちます。
現在、「国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に指定され、その特徴は、「紙肌が緻密なこと、漂白していないこと、楮以外の不純物が入っていないこと、特有の雅美を有すること」などがあります。
那須楮で漉いた紙は丈夫で、耐折力がすばらしいとされ、現在、歌会始(うたかいはじめ)の紙に使用されています。
・小川和紙 (埼玉県比企郡(ひきぐん)小川町、秩父郡東秩父村)
江戸、東京という大都会の変動の激しい需要に応じて、大福帳(だいふくちょう)をはじめ、様々な紙が漉かれてきました。
小川和紙の起源は古く、一説には約千三百年前、当時の武蔵国に渡米した高句麗人(こうくりじん)により、伝えられたのが始まりとされています。
和紙は多くの寺で写経用紙、経巻紙として重宝されていましたが、江戸時代に入ると紙の需要が増え始め、紙すきが産業として栄える様になりました。
小川を中心とする槻川(つきがわ)流域の村でも、紙干しが好天気に恵まれると「ぴっかり千両」と言われ、当時の盛況ぶりが今でもうかがえます。
東京に最も近い和紙産地として、和紙界の指導的な役割を果たしてきました。
小川和紙を代表するものとして「細川紙(ほそかわがみ)」があります。
細川紙と言われる楮紙(こうぞがみ)は、独特の技術と丈夫で素朴な紙質と相まって、代表的な小川和紙と賞讃され、国の「重要無形文化財」、県の「伝統的手工芸品」の指定を受けています。
・越中和紙 (富山県八尾町ほか)
越中和紙の名称は、八尾和紙、五箇山和紙(ごかやまわし)、蛭谷紙(びるだんがみ)の3産地の総称です。
とくに八尾、五箇山は20代、30代の後継者が多く、全国的にも元気な産地といえます。
八尾和紙は江戸時代より、富山売薬の袋や膏薬紙(こうやくがみ)、これを束ねる細紙、薬の配置先を記録する懸場帳(かけばちょう)を漉いて発展してきました。
合掌造りの里五箇山では、合掌造りの大家屋で、昔から多くの人を雇って、工場的な形態で紙漉きが行われてきました。
いずれも楮(こうぞ)が豊富に育つ場所です。
・美濃和紙 (岐阜県美濃市)
美濃における最初の紙は、正倉院にある現存最古の戸籍用紙(702年)で、美濃、筑前、豊前のものが保管されています。
これは、楮(こうぞ)を原料として、溜め漉き法で作られた紙で、美濃の紙は、特に優れたできばえと評されております。
書院紙(しょいんがみ)と呼ばれた障子紙は、江戸幕府の御用紙の指定を受けるなど、高度な技術に支えられて、全国数ある障子紙の中でもトップの座を維持しています。
・近江和紙 (滋賀県近江市)
良質な清水と、山野に自生する雁皮(がんぴ)、消費地の京都が近いことから、西陣織(にしじんおり)の金銀張り地紙に漉かれてきました。
近江鳥の子(とりのこ)は宮内省(くないしょう)の和歌料紙(りょうし)ともなっています。
なめらかな紙肌と光沢、やわらかさと強靭さ、そして保存性を持つ雁皮(がんぴ)の高級紙は、文化補修に欠かせない紙でもあります。
近江鳥の子(とりのこ)は、琵琶湖の湘南山ろく、桐生の里の成子家だけで漉かれています。
平安初期の「延喜式(えんぎしき)」によると、近江国では紙と製紙原料の麻を上納していた記録があります。
・名塩和紙 (兵庫県西宮市)
間似合紙(まにあいし)とは、襖サイズである半間(90センチ)に間に合う紙という意味。
これに泥を混ぜて漉くのが名塩(なじお)独特の技法です。
これにより、虫害を防ぎ、耐熱・耐火性があり、変色せず、乾湿に対する抵抗力があり、したがって保存力があります。
泥土のしっとりとした光沢と渋みのある重厚さは、他には真似のできないものとなっています。
・備中和紙 (岡山県倉敷市)
岡山県の西部を流れる高梨川(たかなしがわ)の上流に、清河内紙の漉き場がありました。
ダム建設で村が水没した際に、丹下哲夫(たんげてつお)氏が下流の倉敷市に移り、旧来の技法を尊重して手漉きを開始、それを備中和紙と名づけました。
備中鳥の子紙(びっちゅうとりのこがみ)は東大寺大納経(とうだいじだいのうきょう)の料紙ともなりました。
岡山県は、楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)すべてに恵まれた土地で、楮の生産は激減したものの、三椏や雁皮による特色のある紙を漉いています。
備中の雁皮紙(がんぴし)は黒色と線のよさでかな書家に評判がいいです。
・因州和紙 (鳥取県佐治村、青谷町)
古代には因幡(いなば)と伯耆(ほうき)の国いずれにも紙の里が存在したが、現在は因幡(いなば)だけに紙の産地が残ってます。
江戸時代には鳥取藩から庇護を受けて生産が広がりました。
明治以降は三椏栽培に力を入れ、三椏を主原料にした書道半紙や画仙紙(がせんし)を生産したことが、紙の里生き残りに奏功しました。
因州の代名詞とされる「因州筆切れず」とは、滑らかな紙肌を黒色美しく、筆がすらすらと運ぶさまを言い表した名キャッチフレーズです。
いまでは、山梨県と共に書道紙、画仙紙の重要な産地となっています。
ほかには、民芸紙、染色紙なども漉かれています。
近年は、立体的なランプシェードやインテリア製品、機能性物質などをすき込んだ新機能性和紙なども開発しています。
・石州和紙 (島根県浜田市ほか)
島根県西部、石見地方で漉かれています。
江戸時代には藩の奨励のもと、山間部の村々で冬季の副業として行われていました。
寛政10年(1798年)、地元の紙問屋である国東治兵衛(くにさきじへい)が著した「紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)」は、石州半紙の製法を絵入りかな書きで表した日本発の製紙指導書となりました。
手漉き和紙の技法書として著名なもので、英・独など数ヶ国語に翻訳されています。
石州和紙の特徴は、楮(こうぞ)の黒皮を削るとき、黒皮と白皮の間にある甘皮を残して漉き入れることにあります。
この甘皮が楮(こうぞ)の耐久性を高めています。
しかし、他の地域で、同じ技法で和紙を漉いても、石州半紙はできないといわれております。
石州半紙は重要無形文化財(じゅうようむけいぶんかざい)として総合指定されており、石州半紙技術者会(せきしゅうはんしぎじゅつかい)がその技術保持者に認定されています。
・土佐和紙 (高知県土佐市、吾川郡いの町、高岡郡ほか)
平安時代の「延喜式(えんぎしき)」にも、土佐の紙の名は登場しています。
土佐七色紙(とさなないろがみ)が、徳川幕府への献上品となるなどの歴史があります。
伊野の御用紙漉き家に生まれた吉井源太は、幕末の頃、江戸に出て紙の市場調査を行い、製紙の現場に大改革を行いました。
連漉器(れんすきき)を生み出して、量産合理化をはかり、女性の手仕事だった紙漉きを、男性の生業として確立するなど、製紙を企業化させるという方向を目指しました。
土佐典具帖紙(とさてんじょうぐし)、図引紙(ずひきがみ)など、時代を読んだ紙を取り入れ、広く世界に手漉き和紙の市場を求めました。
彼の改良技術の指導は、全国各産地に及び、その功績により、明治中期には、圧倒的な全国一の生産を誇るまでになりました。
・八女和紙(福岡県八女市、筑後市)
文禄年間(1592~96)、日蓮宗の僧・日源によって創始されたといわれます。
八女(やめ)の楮(こうぞ)は、赤楮といわれ、粗剛(そごう)な繊維を特徴とします。
これを八女の漉き手は、「じゃじゃ馬を乗りこなす」ように漉いてきたといわれます。
現在は地元で産する、長繊維の八女楮(やめこうぞ)を主原料としており、表装紙、民藝紙(みんげいし)、画仙紙(がせんし)、灯ろう紙などを漉いております。
強靭優美で、独特な趣があります。
参照: 和紙のある美しい暮らし